ゴジラ FINAL WARS

 いいたいことはいろいろありますが、要はこういうことです。

 この映画に激怒している人ほど「ゴジラ映画でこれはやってはならない要素」というのを考えているんじゃないかと思うんですね。つまり“パンドラの箱”がこのシリーズにはいつの間にか存在していたんです。確かに、その要素に一切触れなければ、出来不出来があってもファンが認めてくれる怪獣映画にはなるんですよ。

 ですが「東京SOS」を鑑賞してしばらくしてから考えたんですが、その「やってはならない」要素が、逆にゴジラ映画を束縛しているような気がしちゃったんですね。「SOS」は稀にみる傑作でしたが、ファンにとっては涙モノの設定でも、一般の人からすれば「はぁ?」だったんじゃないでしょうか。“40年前に小美人と出会った中条博士の甥が主人公”とか言われても、大喜びするのはファンだけで、一般の人は置いてけぼり。その「一般の人置いてけぼり」というのが、実は怪獣映画をどんどん良くない方向へと進めていってたんです。

 平成ガメラを思い出してみて下さい。ファンのツボを刺激されまくりのあんな映画作られちゃ、観るこっちとしてはたまりません。こんなことを書いている私だって褒めてます。ですが−−これは自分にも当てはまるんですが−−この映画を持ち上げすぎたのは間違いだったんじゃないかと。ファンにとってやって欲しくないことが全然無い映画を絶賛し、逆にそういう要素がありすぎた平成ゴジラをコテンパンにけなしたことは、平成ゴジラの対象年齢3歳以上の一般大衆を馬鹿にし、かつ置いてけぼりにして自分達だけで楽しんでたことに等しかったのだ、と。

 おかげで、ミレニアムシリーズはどうでしたか? 世間体じゃ全然盛り上がってません。平成ゴジラシリーズ直撃世代の自分としては、この差に正直驚いてます。現に、ファンの間では金子ゴジラやSOSの評判が良いにもかかわらず、客が全然入ってません。金子ゴジラの240万人なんて、平成ゴジラシリーズの最低観客動員数だったビオランテといい勝負です。

 やって欲しくないことが多いのは自分もよく分かります。自分も前はそう思ってました。

 でももう、そんなのを捨て去る時が来たんです。というか、その必要に迫られているんです

 ゴジラを、いや怪獣映画を自由にするために、我々はゴジラを解放する必要がある。そのためには、もう面白ければ何しても構わん! それくらい強固に構えるべきです!!

 この映画は見事にそのパンドラの箱を開けてしまいました。ですから、これからが大変です。

 希望はあるかって? もちろん、ありますとも。

 その時が来るのを信じることです。例えそれが何度裏切られようと……。

 それが、怪獣好きの自分の義務です。さあ、かかってこい!!


 ……それにしても、褒めている人いないなぁ。俺だけか?