土曜日も仕事

 朝からどんよりした空模様の元仕事場へ。昨日の続きをチャッチャと切り上げた後、仕事が無いので工場内整理。午後からようやく海外向け車両にとりかかる。帰る頃には雨が降り出した。明日もこんな調子か?

 既にクランクインはしており、樋口真嗣監督のロケハンレポートも『特撮ニュータイプ』に掲載されてましたが、その写真の中に「○○銀座商店街」の文字が。一体どこなのかと気になってたのですが、どうやら埼玉県本庄市の銀座だったと判明。エキストラの数が250人というと少ないようにも思えましたが、そこは“見せ方”なんでしょうね。それにしても、他の出演者として大地真央豊川悦司の名前が挙がっていたのには驚いた。まさかトヨエツが田所博士役なのか?
 さらに日本沈没ロケ情報として東京都日野市から。かなり避難民にスポットを当てているようですね。これは73年版ではあまり観られなかった描写です。加えて北海道函館市では津波が襲うという場面を撮影。73年版では丹後半島でしたが、日本各地でいろいろ見せてくれるようです。

 『日本沈没』つながりで樋口真嗣監督インタビューから。

 巨大な生物や巨大なヒーローを出した瞬間、もう物語の方向性が決まっちゃっているんですよね。だから何か新しい物語をと思った時は、そのキーになっているキャラクターの属性を変えざるを得ないんですよ。ところがそれをやってしまったら、そのキャラはそれではなくなってしまう。となると、そのキャラで作る意味があるのかな、ということに行き着いてしまうわけです。(中略)怪獣映画とかそれに類するものは、劇としては弱いところを、強烈なビジュアルを投入することで成立させているんですよ。『ガメラ』を作っているときそれに気づいてしまって……。だからそれを突破するには、莫大な予算をかけてビジュアルを強化していくか、そのキャラが持っている要素を根底から変えるしかないんですよ。

 怪獣好きとの自分としては、読んでいて何とも痛いトコロを突かれまくってます。そう、怪獣が人間と絡めない分、どうしてもドラマ性を人間側で補うしかないというのが、怪獣映画の最大の弱点ではあるんです。だから怪獣映画でドラマを作れ、となるとやはり人間側が肝にならざるを得ない。だからこそ怪獣映画なのに怪獣が出ない『大怪獣東京に現わる』という逆説的な作品も成立してしまう。
 どんなに人間側のドラマを掘り下げようと、そこに劇として弱い怪獣というものが出てくる。怪獣にドラマ性を持たせようとしても、それは結局人間側の解釈次第ということになり、結局は人間側のドラマになってしまう……。このジレンマをぶち破ることがどうやっても出来ない、と監督。あいにく、若輩者の自分もそれを破ることは出来ない。その突破口を開くことが出来た時に、怪獣映画の新時代が来るのだろう。それがいつになるかは分からないが。